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2018年9月11日
郡中十錦、江山焼 故郷郡中に帰る

民力で築いた町郡中と郡中三町の発展 

郡中町人文化の形成

江戸時代前期、伊予灘に面し、牛飼原と呼ばれる松林の原野であった灘町を、上灘村の商人宮内兄弟は私財で開発します。灘町周辺の湊町、三嶋町も開けていきます。灘町、湊町の土地は砂地で、三島町は笹原が生い茂る小高い丘陵地でした。共に稲作には不向きな、いわば見捨てられていたような土地でした。後に郡中三町と呼ばれる灘町、三島町は、商の地を、湊町は漁業の地を目指して発展をはじめます。

江戸時代後期に、3期24年の歳月を要し、灘町の安広川河口に萬安港を完成させ、港の交易により町は飛躍的に発展を続けます。この時代背景のなかで、灘町に、仲田蓼村(なかたりょうそん)、陶惟貞(すえいてい)、小谷屋友九郎(おだにやともくろう)という三人の有能な町人が期せずして現れます。活力がみなぎっていたであろう、郡中の町の雰囲気に影響されながら、この三人の才能は開花したと思われます。この人達により、俳諧、教育、郡中十錦が広まり、郡中町人文化を形成していきます。なかでも、陶惟貞は、1821年又は1822年から1872年までの50年間、灘町で寺子屋を開き、その間2千人の子弟に学問を教えています。陶惟貞による教育が、郡中方面の人材を育成し、これらの人的資源の質量と港による資本の蓄積が郡中の発展を支えたように思われます。

明治という時代は、士農工商の身分制度が廃止され、行政の仕組みも一変し、同時に第1次産業革命が進行するという大変革の時代でした。郡中方面の人達は、萬安港の成功体験からか、地域発展のための近代化事業を積極果敢にすすめています。郡中銀行の創立、彩浜館の建設、南予鉄道会社による郡中―藤原間の鉄道の開設、伊予汽船会社による東京―鹿児島間、他の航路の開設、三島陶器の隆盛等、伊予汽船会社が解散する明治34年までは、郡中がもっとも繁栄した時代でした。槇江山が大洲街道に面した郡中町湊町本町の槙家を継ぎ、江山焼を創始した明治26年、あるいは明治28年は、郡中の絶頂期といえる時期にあたり、活気みなぎる町の雰囲気に影響されながら、江山の才能は開花し、最終の郡中町人文化、江山焼は発展していきます。

また、大正期に興った削り節業の発展の要因の一つは、事業所が郡中港の近隣に所在し、原材料の搬入や製品の出荷に郡中港を容易に利用できたという、立地の優位性にあります。

このように見ていきますと、砂浜海岸に自普請(民間が責任を持って行う工事のこと)で港を造ろうという無謀ともいえる挑戦が、民力で築いてきた特異な歴史を持つ郡中の原点であり、ここから生まれてきた風土が明治、大正、昭和前期の原動力につながったようです。

 

            郡中十錦、江山焼 故郷郡中に帰る

二郡中に生まれた文化、郡中十錦と江山焼は、砥部焼や三島陶器のように大名家の命令で興った焼物と異なり、個人の才能で創始した個人窯でした。いづれも本人一代で終了した窯です。郡中十錦は江戸時代後期から明治初期まで、江山焼は明治26年頃から昭和初期まで制作され、それぞれの時代の人々に珍重されたようです。しかし、時の経過と共に人々の記憶からも遠ざかり、今では郡中十錦と江山焼を知る人も少なくなっています。

そこで、まずは、名陶芸家「小谷屋友九郎」と「槇 江山」の作品を目近に見ていただこうと、平成29年6月から郡中まち元気サロン来良夢(こらむ)で郡中十錦と江山焼の展示をはじめました。先日も、追加の展示をし郡中十錦と江山焼の代表的な作風が、ほぼ揃うまでになりました。両作家の制作期間の中間期から計算すると、来良夢に展示している作品は、100年~160年ぶりに故郷郡中に帰ったことになります。心なしか、作品も喜んでいるように見えます。(ちなみに来良夢の場所は、郡中十錦と江山焼の創始地から190m、250mの処にあります)

皆さん、観覧されてはいかがでしょうか?  なお、観覧無料です。

9月20日以降から、ご希望の方に、『2117 郡中三百年祭の会』が作成した江山焼の資料、「郡中に生まれた文化 江山焼について(A4版、26ページ、黒1色印刷)」を、お1人さま、1冊限りプレゼント。

写真は、郡中まち元気サロン来良夢に展示している郡中十錦と江山焼

観覧などのお問合せ先  郡中まち元気推進協議会 德本 ℡090-4974-0329、または一色 ℡090-4339-2349 までおねがいします。