ホーム いっぷく亭 店舗情報 まち情報 まちの生い立ち・五色姫物語 組合概要
お知らせ
ホームお知らせ > 江山焼は、いつ、どこで、はじまったの ?
2018年1月29日
江山焼は、いつ、どこで、はじまったの ?

郡中に生まれた文化といえば、江戸時代後期から明治初期に、小谷屋友九郎により、中国の十錦手を模して制作された郡中十錦、そして、昭和初期まで制作された江山焼を思い浮かべます。

江山焼を創始した槇江山は、明治中期の頃から昭和初期にかけて活躍した、郡中湊町の名陶芸家で、作品は、茶器、花器、人形等が多く、作風は楽焼に似て素朴・風雅な趣があります。磁気では味わえない土の温かさがあり特に陶人形作品に醍醐味があるといわれています。江山は、東郷平八郎、秋山好古(あきやまよしふる)、旧松山藩主久松勝成(ひさまつかつしげ)、高浜虚子(たかはまきょし)、河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)、下村為山(しもむらいざん)など著名人との交流も多く、作品は、皇族もお買上げになるなど名声を高めます。明治42年、伊藤博文郡中来町の際に彩浜館の庭先でお庭焼をし、これにより江山の名声は更に広まりました。伊藤博文染筆江山焼抹茶茶碗と大師堂の金剛力士像は、伊予市指定文化財になっています。

江山は、数々の作品を残し、1936(昭和11)年に亡くなっています。しかし、明治も大正も昭和前期もすでに遠くになり、槇江山の詳しい足跡は分かっていない部分があります。江山の地元、郡中に住む私たちにとって、知っておきたいことは、「江山焼は、いつころ、どこで、はじまったか?」という江山焼物語の土台の部分でした。

一般的には、江山は明治中期の頃に郡中湊町の殿町で江山焼を創始したとされています。一方、昭和58年、湊町の岡井次雄氏は、伊予市歴史文化の会の冊子に、旧大洲街道に面した、湊町の西岡義雄氏宅の南隣にあった江山宅で、江山焼を制作していたと記しています。また、江山の子孫の方によると、江山は、妻、鶴代と長男登を連れて、郡中湊町で旅籠を営んでいたとされる槇家を継いでいます。槇江山の次男、槇 辰一は、明治26年の生まれで、その時には江山は槇家を継いでいたとのことです。江山が、槇家を継いだ年代は明治26年頃で確定できると思われます。

江山焼の創始地ですが、湊町の殿町は、旧大洲街道から約50m離れた小さな道路に面しており、江山の子孫の方が言われる旅籠の商いには不向きな場所です。故岡井次雄氏が発表された、江山の自宅が、現在の湊町の西岡義雄氏宅の南隣にあったか?の検証が必要になります。地租改正に伴い明治9年に作成されて段別畝順帳を閲覧しますと、岡井氏により江山の自宅とされる場所、湊町75番の土地所有者は槙 彌三衛、その南隣の土地の所有者は真木藤次郎の名が記されています。江山は、「明治9年には、槙 彌三衛という人がいた槙家」を継いだと思われます。

槙 彌三衛と真木藤次郎の関係は不明ですが、両家は地続きであり一族かもしれません。いずれの土地も現在は、仲田氏宅になっています。そして、明治31年には、仲田百太郎はこの場所で酒造業を創業しています。このように見ていきますと、故岡井次雄氏の発表のとおり、江山は、旧大洲街道に面した、現在の湊町の西岡義雄氏宅の南隣、仲田氏宅の北側部分にあった自宅で江山焼を制作し、その時期は明治26年頃と確定しても良いかと思われます。湊町の殿町ではなく、ここが江山焼の創始地になります。また、江山が湊町の殿町に転居したのは、明治30年もしくは31年だろうとおもわれます。 江山が著名になった時期の江山窯があった殿町が、そのまま江山焼の創始地と伝えられたようです。

なお、槇家は、伊予市上吾川に所在する称名寺の檀家で、墓は湊町の増福寺にあります。増福寺には萬安港築港の功労者岡文四郎の墓もあります。

この記載に関するお問合せは、株式会社まちづくり郡中 ☎089-946-7245までお願いします。

写真は、江山が明治41年12月に伊予稲荷神社に奉納した、江山焼・山姥金時