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2015年11月22日
幕末期~明治・大正期の大洲を学ぶ

11月17日(火)、交流施設「郡中いっぷく亭」の皆さんと「まちづくり関係」の皆さん、あわせて18名で、大洲市街なかの視察研修をしました。

 伊予市は江戸時代前期から同末期までの233年間大洲藩領でした。大洲藩2代藩主加藤泰興の時代(1635年)に松山藩とのお替地により伊予市は大洲藩領となり、翌1636年、現在の伊予市中心市街地である灘町の開発が始まりました。伊予市と大洲市の行政上のかかわりは、明治の時代を迎えて途絶えます。それから約150年を経て、伊予市民も大洲領であった江戸時代の歴史認識はあるものの大洲への関心は少なかったように思われます。2017年開催予定の「郡中200年祭」に向けて、改めて大洲藩と大洲市を学ぶことが大切と考え、まちづくり関係の皆さんにも視察研修に参加していただきました。

 かねてから大洲藩は好学の気風と勤王の思想があった藩と聞いていました。現在の伊予内港、往時の萬安港の築港を進めた大洲藩の下級武士、岡文四郎、豊川市兵衛の功績等をふりかえる時、優秀な家臣が数多くいたことが想像されます。この日現地の案内してくださった㈱大洲街なか再生館の河野達郎氏から幕末期の大洲藩と「坂本龍馬、いろは丸」、明治・大正期の大洲と臥竜山荘のすばらしさを学びました。大政奉還による天皇の東京行幸の際、行列の先頭を6万石の小大名にすぎなった大洲藩が務め、行列の最後尾の守りを大洲藩の支藩である新谷藩が務めたそうです。このことは、幕末~明治維新の歴史の表舞台に登場することが少なかった大洲藩の往時の評価を想像させます。また明治期には、木蝋やその他の産業により大洲は繁栄したようです。臥竜山荘は繁栄した大洲のシンボルともいえる数寄屋造りの名建築物で、十二支の石灯篭と不老庵をはじめとした建物の考え抜かれた配置など、一連の「臥竜山荘物語」を学びました。河野達郎氏の説明と女性の方による臥竜院での行き届いた説明を拝聴し、好学の気風に充ち優秀な人材を輩出した大洲藩の伝統が、現代にも脈脈と継承されているように感じました。

視察研修終了後、郡中いっぷく亭関係他13名の方は人間牧場開設10周年を祝って「若松進一氏を囲む研修会」に向かい、㈱まちづくり郡中関係者は河野達郎氏に面談し、郡中200年祭開催に向けてのご協力方お願いをし、帰路につきました。大洲の説明をしてくださいました河野達郎氏と関係の皆さん、ありがとうございました。

写真は視察研修のようす 写真右は「いろは丸」を説明している河野達郎氏