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五色姫物語
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まちの生い立ち・五色姫物語
平家とつながりが深かった旧伊予市                  平成24年5月 改訂

 「与州新居系図(よしゅうにいけいず)」は日本三大系図の一つで昭和27年に国の重要文化財に指定され、現在は西条市の伊曾乃神社が所蔵しています。明比學氏著により平成2年に発行された「続与州新居系図(ぞくよしゅうにいけいず)の研究」には、 「中予に起こった河野氏に対して東予に起こった豪族は新居氏(にいし)である。新居氏は本姓を越智とする。新居氏の分流高市氏(たかいちし)は伊予地方を中心に多くの分派を生み中予に繁衍(はんえん)した。」 「伊予地方に繁衍した新居氏の一族高市氏は武智とも武市とも称しているが、皆同族高市氏である。今日では高市・武智・武市と三様になっている。」 「高市一族は平安時代より一千年、連綿として今日に至り、幾多の支族に分かれて繁衍してきた新居一族の名族である。」と記されています。平安時代後期に旧伊予市を治めていた豪 族「高市氏」は旧朝倉村に隣接する今治市高市から旧伊予市へ移り住み、旧伊予市・松前町・砥部町・旧松山市南部・旧北条市の一部などに繁衍していきます。「高市氏」の本流が居住していた三谷館(みたにやかた)の所在地は上三谷の客池あたりとも言われています。平家全盛の頃、平清盛が高市盛義(もりのり)の元服時の名付け親になるなど平家と緊密な関係にありました。源平の合戦の頃には「高市氏」は平家方に加担していましたが、元暦2年(1185年)正月 源氏方の河野氏の急襲をうけ高市盛義の子、高市秀義(ひでのり)氏は三谷館(みたにやかた)で討死します。吾川館(所在地は上吾川の称名寺あたりとされています)に居た高市盛義の兄、高市俊義(としのり)は無勢のため城を守れず屋島へ敗走します。一説では現在の砥部町高市に逃れたとも言われています。「高市氏一族」は鎌倉時代には河野氏に従属しています。

            

 三谷館があったと言われる、現在の上三谷客池(写真左)客池の上に霞んで見える松林が五色浜

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           吾川館があったとされる、現在の称名寺付近  

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壇ノ浦の戦い 寿永4年(1185年)3月24日 平家滅亡

旧伊予市には五色浜の石、下唐川長崎谷の武田氏、大谷池本妙谷(通称ウグイス谷)等の平家落人伝説があります。ウグイス谷に住んでいた人たちの家紋は「歯朶(しだ)にウグイス」であったと言われています。この紋章は三谷神社(高市氏の氏神とされる若皇(わかおう)大神宮を 合祀) ))m)    )の法被の紋として使用されると共に、旧伊予市内の武智氏・武知氏・向井氏の中には、これを家紋に用いている家もあります。現在も旧伊予市には「高市氏一族」を先祖に持つとおもわれる姓の方々が多く住まわれています。

若皇神社(にゅくおうじんじゃ)
若皇神社(にゅくおうじんじゃ)

所在地:上三谷大替地
若皇神社は高市氏の氏神と推定される神社である

【伊豫市誌より】
若皇神社は若一(にゃくいち)社・若市王(にゃくいちおう)大神宮・若皇(にゃくおう)社などとも言う。「豫洲大洲領御替地(おかえち)古今集」によると、当社は上三谷村の氏神である。但し平松組は宮下伊曾能神社の氏子である。(中略)当社の産子(うぶこ)は向井・垣生・武智・高市の村人である。
(以下要約:1577年 賊により若一社の社殿・社家が打ち壊される。 1595年 「若一社は高市の氏神で源氏代々の鎮守であるから捨て置くことは出来ない」とし1602年再建された)

若皇神社内のお社

若皇神社内のお社
明治43年に中御世五大明神社と若皇神社を、金比羅神社に合祀し、三谷神社とした

若皇神社の法被の紋

三谷神社の法被の紋
「歯朶に鶯」

多喜寺(たきじ)
多喜寺(たきじ)跡  ※写真クリック(拡大写真)

所在地:上三谷大替地(現在は廃寺となっている

多喜寺は高市氏の氏寺と言われており、高市盛義の四男で「平家物語」にも武智武者所清教の名で出てくる高市清義(きよのり)の墓と伝えられる層塔がある。建治3年(西暦1277年)7月13日の銘が刻まれている。層塔には今なお供養の花が絶えることがない。

多喜寺2.jpg

 

 

 

 

 

※記載内容の出典は、伊予市歴史文化の会 坪内寛氏著「五色姫伝説が生れた背景―高市氏との関係から―」と明比學氏著「続与州新居系図の研究」によります。「五色浜の石」伝説では、五人の姫達が浜辺に小屋を建て暮していた事と、赤・緑・黄色・黒・白の五色の石になった事が伝えられています。そこには滅亡する者の悲哀と源氏への深い怨念が語られており、悲惨でありまた美しくもある伝説です。全国各地に平家落人伝説が数多く残っていますがその大部分は山間僻地に伝わる伝説で、「五色浜の石」伝説のように人目につく平野部の伝説は少ないようです。もしかして往時の旧伊予市の人々は、平家ゆかりの豪族 高市氏の影響により、平家に好感を持ち落人を護ってあげたいといった庶民感情があったのかもしれません。それ故に人目につく五色浜に平家落人伝説が語り伝えられているのかもしれません。これからも様々な想像を呼び起こすと思われます。

河野氏の盛衰および河野一族と旧伊予市のかかわり

河野氏は鎌倉幕府に取り立てられたが、1221年 承久の乱で新居氏・高市氏一族を従えて後鳥羽上皇方で戦い幕府方に敗れて一時的に衰退します。
1271年と1279年の元寇の役で大功をたて再び栄えるようになりました。この時期に全盛期を迎えます。
1585年 豊臣秀吉の四国征伐の際、河野氏は豊臣に恭順し新たな伊予支配者小早川隆景の元に庇護されました。
1587年 河野通直が竹原で没し、嗣子がなく大名としての河野氏は57代で滅亡します。
壇ノ浦の戦いから415年後の1600年 豊臣方についた河野氏一族と遺臣は、関が原の合戦に呼応して、毛利・村上勢、平岡勢と共に加藤嘉明の居城 正木城を攻めようとしましたが「刈屋口の戦い」(戦いの場所:松山市三津)に敗れ滅亡します。
河野氏一族の滅亡から35年後の1635年、松山藩と大洲藩との間で替地が行われ、河野氏ゆかりの地であった旧北条市は松山藩の領地に、旧伊予市は大洲藩の領地となりました。
替地の翌年1636年、河野一族の末裔である宮内家により伊予市灘町の開発に着手する事となります。

五色姫伝説と五色姫復活祭のはじまり

伊予市商業協同組合創立(昭和62年・1987年)4月~10月の勉強会において「祈願成就のねがい石」と「五色姫復活祭」の物語が出来上がりました。
壇ノ浦の戦いの期日と国際女性デーにより3月第4日曜日に開催する事になりました。
第1回―女性の祭典―五色姫復活祭の開催 (平成元年・1988年3月)以後毎年3月第4日曜日に開催しています。
五色浜神社境内に五色姫神社と願い石の碑を建立 (平成2年)平成2年からは五色姫復活祭の前日に、稲荷神社宮司の祭司により五色姫神社祭典を執り行い、五人の姫の御霊を鎮め、姫の幸せと復活を祈願しています。

ねがい石

五色の石に願いを事をするとかなえられると言われるねがい石

五色姫絵馬

哀しい伝説を持つ五人のお姫様が描かれた五色姫絵馬

五色姫神社

五色姫神社

ねがい石の碑

ねがい石の碑

―女性の祭典―五色姫復活祭を継続して開催するうち「五色姫」と言う呼称がひろまりました。「五色姫」を冠した商品等の開発が始まると共に平成6年(1994年)伊予市尾崎に開設された海浜公園の名称は「五色姫海浜公園」となり公共施設の名称にも採用される事となりました。今日では「五色浜の石」伝説は、「五色姫伝説」と呼ばれるようになっています。
第19回のお祭り以後はいっぷく亭運営委員の皆さんの協力などにより内容も更に充実し、一層盛大なお祭りになっています。

平成23年 五色姫神社祭典と第23回-女姓の祭典―五色姫復活祭

今年も晴れ渡ったさわやかな季節の中「五色姫復活祭」が開催されました。また、前日には坊ちゃん劇場完熟「一期座」による『人生いろいろ五色姫』が上演され、祭りの雰囲気を一層盛り上げてくれました。

【人生いろいろ五色姫】
人生いろいろ五色姫01 人生いろいろ五色姫02 人生いろいろ五色姫03 人生いろいろ五色姫04 人生いろいろ五色姫05 人生いろいろ五色姫06 人生いろいろ五色姫07 人生いろいろ五色姫08 人生いろいろ五色姫09 人生いろいろ五色姫10 人生いろいろ五色姫11 人生いろいろ五色姫12 人生いろいろ五色姫13 人生いろいろ五色姫14 人生いろいろ五色姫15 人生いろいろ五色姫16 人生いろいろ五色姫17 人生いろいろ五色姫18 人生いろいろ五色姫19 人生いろいろ五色姫20 人生いろいろ五色姫21 人生いろいろ五色姫22 人生いろいろ五色姫23 人生いろいろ五色姫24 人生いろいろ五色姫25 人生いろいろ五色姫26 人生いろいろ五色姫27
【五色姫神社祭典と五色姫復活祭】
五色姫復活祭01 五色姫復活祭02 五色姫復活祭03 五色姫復活祭04 五色姫復活祭05 五色姫復活祭06 五色姫復活祭07 五色姫復活祭08 五色姫復活祭09 五色姫復活祭10 五色姫復活祭11 五色姫復活祭12 五色姫復活祭13 五色姫復活祭14 五色姫復活祭15 五色姫復活祭16 五色姫復活祭17 五色姫復活祭18 五色姫復活祭19 五色姫復活祭20 五色姫復活祭21